演技における棒読みはなぜ発生するか
演技をしたり、朗読をしたときに棒読みになってしまうことはよくあることだと思う。昔は学校の出し物などで役割を割り当てられてしまったりして、半分不貞腐れながら演じているものや、恥ずかしさを感じているものは皆棒読みだった。
しかし厄介なのは、ちゃんと演じようと思っている人でも、その意図に関係なく棒読みという違和感のある演技をしてしまうことだ。
これについて、最近考えた事があるのでここに記してみようと思う。結論から言うと、棒読みとはコミュニケーションの不在だと思う。演技は相手と話している場面と、一人芝居のシーンに大別できるが、そのどちらにしろ、棒読みの演技にはコミュニケーションが存在していない。
では、コミュニケーションの不在とはいったいどう言うことか。コミュニケーションとは、レスポンスの応酬である。投げ返された言葉に対して、相互に反応していくことである。
普段の会話が棒読みにならないのは、きちんと相手の言葉に反応しているからであろう。(充分に反応されていない一方通行のコミュニケーションは日常にもあるが、そこには今回触れないことにする。)それが、演技になると途端に棒読みになる。
これは、演技だからといって相手の言葉に耳を傾けていないことに起因する。普通、演技には筋書きがあって、内容は事前に把握している。だからこそ、会話をしなくなってしまう。普段の会話では、相手から次に出てくる言葉というのは未知なものなので、耳を傾け、そして読み込んでから発言する。
しかし、棒読みの演技は、相手が言葉を発した1秒後に、機械的にセリフを読んでいるだけだ。そこには、演技をしなくてはならないという強迫観念のようなものが存在している。それによって、相手の言葉を聞いて、読み込んで、そして反応するという過程が丸ごとごっそり抜けてしまうことになる。それが、言葉通り「棒読み」の正体であると考察する。
私が思う脱・棒読みの秘訣は、相手の言葉をナチュラルに聴くこと、である。そして、次に出てくる自分のセリフを構えないということだ。むしろ、朗読するときなどは、相手のセリフが終わるまで自分のセリフは見ない方がいいとさえ思う。
相手のセリフを聞いて、一度素の自分のリアクションを感じてから、セリフを見ると面白い。自分は相手のセリフに対して、こう感じていたが、セリフの中の自分は反対のことを次にしゃべっていた。なんて事も起こる。
そういう時は、演じるキャラクターと自分の間に、どのような思想のギャップがあるのかを考えるチャンスだ。このようなプロセスを通して、相手のキャラクターも自分の演じるキャラクターについても知る事ができる。
これが演技に深みを出すのではないかと、私は思う。
風呂で思い出したこと
さっき風呂に入って歌ってたら、ふと思い出したことがある。
それは自分が歌うことが好きだったこと。
結構当たり前のようにも思えるけど、多分数年くらいはぼんやりと忘れていた。
しっかり風呂で歌ったのは多分3.4年くらい無かったと思う。(言い過ぎか?)
そして歌いながら思った。歌うことは楽しいと。
自分が音楽をなぜここまで好きだったのかというと、多分歌うことが好きだったからだ。
振り返ると、中学時代は学校までの30分の道のりの中で歌いながら登下校していた。
小田和正やオフコース、スピッツなどを歌いながら。楽器とかサウンドとかそういうことを考えずに、ただ好きな曲を繰り返し歌いながらチャリを漕いでいた。
今考えると、結構な大声で歌っていたから通り道の人にめっちゃ聞こえてたかもしれない。
実際近所では歌ってたことが普通に知られていた(ちょい恥ずい)。
なんせ夕方にハイトーンな小田和正をのサビなんか歌ってたもんね。
とはいえ田舎なので住宅街を通り抜けるというよりかは、ゴルフ場の隙間を縫うような道だったからそこまで気にしなくてよかったというのはある。
これが杉並区みたいなところに住んでたら歌えなかっただろう。
あとは妙に小学時代の記憶で覚えてることがある。それは小4くらいの音楽の授業の時、ふと自分が大きくなっても歌がうまく歌えているといいな、と思ったことだ。この記憶と風景はずっと覚えている。なんでだろう、その時はそんなに歌うことに対して意識はなかったはずなのに。
でも、その年の市の同学年の小学校全てが集まるコンテストではクラスを代表して賞状を受け取った。多分好きだったんだろう。それが周りにも伝わってたのかも知れない。
それを確かめるように、中学校のころはカラオケに友人とよく通った。月に二、三回は通った時期もあった。その頃の休日は、PSPのオンライン対戦で誰かの家に集まるか、カラオケに行くかだった。カラオケ特有の、ドリンクバーの薄いコーラの味は今でも思い出す。
同時に、そこで自分がそれなりに歌うことが周りよりか上手くできることを知った。だからその頃から歌うことを含め音楽は大好きだった。歌う、という軸があったことでいろんな音楽を抵抗なく聞けていた面もあっただろう。その頃、音楽と歌は常に共にあった。
いつからか、音楽を聴くときの主役から、メロディーと歌詞が外れた。それは悪いことではなく、ピントが変わっていったということだろう。コードやサウンド、プレイヤーやアドリブのアプローチで音楽を聴く時期が長く続いた。
その時期は、歌うことはほとんどなかった。街中に引っ越した関係で、登下校中に歌える環境出なくなったことも大きいのかも知れない。高1の暮れからシンセサイザーを使って音楽を作ることを覚えてから今に至るまで、ずいぶん回り道をした。
そしてある程度表現として自分はどんな音楽を作ればいいのかわからなくなっていた。自分が音楽を作る必然性というものを見失っていたのかも知れない。たくさんの素晴らしい作品がすでに世に出ていて、そして自分はそれに憧れている。
だからと言って、俺が音楽を作る意味って何かわからなくなっていた今、風呂で歌ったことで思い出せた気がする。
歌うことはめちゃくちゃ楽しい。そして、そこを起点にして始まった音楽の探索は、ゴールを見失っていた。作る気を失ったと言っても過言ではない時期が続いた。もう一度原点に戻りたい。
自分自身が歌を歌う。その行為そのものに意味を見出していく。
P.S この考えに至ったのは、今日聴いた武藤彩未さんのラジオの影響もあると思う。1980s音楽をサウンドという面でなく、歌という軸において目を輝かせていたのを目の当たりにしたことは大きいかも知れないと思った。
音楽を作ることについて
淵に立つ、という映画を見た。その後、監督の深田さんが受けているインタビューを読んで考えたことがあったのでここに。
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実は考えたことに関係することは、映画の内容とはさほど関係ない。
このインタビューの一節にある言葉だ。
その部分を要約する。
「映画はある時期まで、特権的なものだった。その理由として、まず制作するには35mmフィルムのような機材そのものに莫大な資産がかかるからだ。だから、選ばれた者のみしか作れなかった。」と。
これって音楽でも同じだよね、と思った。
音楽をやること自体は、映画撮影と違って、そこに楽器があればできる。
ここでいう音楽とは、録音芸術としての音楽だ。
誰でも家で録音ができるようになったのはつい最近の話。まして、今みたいにリアルな音源も手に入って、トラックはいくらでも重ねられて、みたいな世界は昔考えられなかっただろう。
敷居が下がることでより多くの人が創作に携わることができる。創作の可能性は果てしなく広がったであろう。だからこそ、先ほどあげた記事にあるように、何をするか、ということが残酷なまでに問われている。
最近音楽を作っていくうちに気がついてきた。
それっぽくなんてある程度の人は誰でも作ることができると。
しかも、今はいくらでもいじれるからその敷居は下がっている。
そこで一喜一憂してちゃ駄目なんだなと、思う。
そこそこうまくできる(うまいように聞かせる)ことって、結構当たり前にできることなのだ。
その先へ行かなくてはならない。
面白い時代だと思う。大変だけど。
家はこんなふうにしたい〜中途半端なもの編
中途半端なものを買う事はよしたい。
ある程度思い切った方がどう考えてもコスパが良い。
中途半端なものを買うと、いつか満足できなくなる。
あるいは、思い入れがなかったりすると、その存在を忘れて似たようなものを買ったりする。
それで長期的に見れば思い切って買った場合のコストと同じくらい>になる。
あるのは中途半端かつ、重複したものたち。なんてことになることが多い。
それよりかは、どんと買った方がいい。恋しているものを。
こんなの自分にふさわしくない、などと謙遜したくなるくらい憧れてるものがちょうどいい。
そういうものは、なかなか忘れない。
そしてそういうものに囲まれた生活の方がどう考えても楽しい。
ちょっと切り詰めてもまあ頑張れる気持ちが持てる。
惚れ惚れしない生活のために頑張るよりかは、その逆の方が頑張れるものだ。
去年、色々と思い切ることができた、
音楽のための環境を一新した。
ローンで買ったMacbookを除いても、考えられる選択肢の中ではかなりいい録音機材を購入した。
UADのオーディオインターフェースApollo twin、オーテクのAT4040
Yamahaのモニターヘッドホン。これらでかなりの値段がある。
しかし後悔はいっぺんもない。
逆に日々の積み重ねで中途半端だと思うものといえば何だろう。
一番わかりやすいものは、食事か。
高校の時、特にアルバイトもしていなかったこともあってご飯は毎回500円を越えないよう頑張っていた。
しかし、外で買うもので500円以下となると、本当に満足できるものは少ない。
逆に、800円くらい出して大好きなものを食べた方がいい。
カツカツになろうとも。
不完全燃焼だとどこかで回収しようとして、結局コスパが悪くなる。
家でご飯を作って持ってけばいいとなると話はまた別だ。
その時は考えになかったけど。
自分の手で作ることで、また別の価値が生まれるから、作ってくのはありだったな。
好きなものを探し、そのために考えたり頑張ったり。
この過程こそ、そのものの価値を決めるんじゃないかと思う。
本当に些細なことでもいい気がする。
例えば、唐突にランチパックのホイップと板チョコ入りが食べたくなったとする。
だが、最寄りのコンビニに無かった。
そんな時、他のパンで妥協するのも手だ。
しかし、時にそれが見つかるまでコンビニやスーパーを5軒回ったっていいはずだ。
そして本当に見つかってしまった時には、そのランチパックには110円以上の価値がある。
価値を勝手にあげてしまえばよい。
こんな考え方を続けるための余裕を作れるようがんばりたい。
散らかった文をここまで読んでくれた人ありがとう。
最近考え始めた、地理の話
小高い山に囲まれた街、飯能に住んでる。
関東平野からみれば、秩父山地の玄関口、山の麓にある都市である。
北西南は山か丘陵に囲まれてる扇状地で、西側だけが入間・狭山・日高に接触してる。だから、この3市、その先の所沢なんかにもよく行った。電車でも車でも。
ある日、自転車でほんとにちょっとだけ南側の丘陵の道をサイクリングした。そしたら驚いた。なんと道路標識には、「東京都」「青梅市」と書いてあった。もちろん飯能市が東京都に接してることは地図からもわかったけど、ほんとうに飯能中心部から20分くらい漕いだだけだった。
こんな東京都って近かったかと思いながら、山と山の隙間を縫うように流れる川と家々を走った。
そして、そんな道を30分ほど走ってみたら、トンネルがあった。ながくて、山にどんとそびえていた。でも、そこを通り抜けて、坂を下ったら、なんだかパラレルワールドに来た気分になった。
飯能市とは様子が全然違うけれど、扇状地にひろがるもう一つの都市がそこにあった。
青梅市街。元々青梅宿があった旧市街で、今はもっと平野部の河辺駅あたりが発展している。
その市街地の規模は飯能と同等かそれ以上。だけど雰囲気が似ていてなんだか不思議な気分になった。
距離は近いけど、丘陵という自然が作り出した圧倒的な障壁が生活圏を切り離していた。
そんなことに感動しつつ、地理が織りなす世界への入り口になった体験だった
あの秋晴れの日に見た景色
2019年10月に訪れた、でっかい台風。そいつが過ぎ去った台風一過の休みの日。
言葉にならないような、秋晴れの空の下。
大学の制作課題で使うためアマゾンで購入した竹笠(昔の人がかぶってるみたいな)を受け取りに、在住する市内にある、歩きで50分ほど離れたクロネコヤマトの集積所へ向かった。時刻午後一時。
空気の匂いも、目に映る山の色も、気持ちがよくて、普段行くことのないヤマトの集積所の道を歩いた。
台風でいろいろ流されたり飛ばされたりで、景色が変わってるってこともあったし、おんなじ市なのに行ったことがなかった場所、っていう絶妙なところだったからかな。なんだか全く知らないけれど、懐かしい場所に迷い込んだ。
この街って、こんなにワクワクする景色があるんだ。そう思いながら歩いた。
このとき何故かハマってた「モーニング娘」の黄金期のアルバムをリピートしながら歩いたものだから、その不思議で優しい景色と、モー娘の青春感がそこで見事に融合してしまったのね。いまでも、モー娘4th「いきまっしょい」5th「ナンバー5」をきくとその日の景色を思い出す。
すべての景色に、紅葉の暖かい黄金色と西日の橙がかかって、かつ少し水の多いうす水色で透き通った清流のような景色。それが忘れられない。
それから、でっかいダンボールに入った竹笠を受け取って、少し冷たい風が吹き抜ける中をあるいた。
そしたら、ちょっと段々になってる土地の上の方に差し掛かって、そこから見えた景色。
いつも通ってる駅と街のほうが、とおーくにある。でも、それはいつもの景色じゃない。見慣れた、駅前ではなかった。
小高い丘なのか山なのかにぐるっと囲まれてその中にある街。箱庭の都市。ジオラマを見てるような景色だった。
こんな街だったのか!一気に故郷が好きになった。
それからまちなかに戻ると、見える景色が違う。古くからの歴史、緑の丘に囲まれたなかに広がってる箱庭の街がみえてきた。不思議と懐かしい景色だった。それから、他の資材を買いに隣町へ電車で出かける前に、あまりにも大きい笠は家に置きに行った。そして、家で一時間ほど昼寝。
気持ちよかったな〜
最近考え始めた、家の話
きっかけは、ぶらりと午後散歩をしてたとき。
いままでほとんど全てが同じに見えていた住宅達が、バラバラになった瞬間であった。
「あの家、何かよくわからないけどワクワクするな」
その家は、最近建てたと思われ、緑系の色で塗られ、木の柄を纏ったお洒落なサイディングの小さな戸建てだった。どこにも無さそうではないけれど、家の中ではそれなりにこだわられたデザインだと思わせるような。
その後ではじめて感じた疑問が湧いてきた。「そういえば、自分にとってのワクワクする家、退屈に感じる家の基準って何によるものなんだろう?」
この疑問を持ったことで、すべての家というものが、ワクワクするのかしないのか、それは何故なのか、というふるいにかけられることになったのである。
それからというものの、2時間住宅街を散歩することが苦どころか、むしろ快楽になったのである。灰色の景色が、カラフルになった。こんな経験をそこそこの年齢になっても感じれるなんて。世界は本当に広いんだな。そう思った4月末。新型コロナが猛威を振り始めていたあの頃だった。