かたわらの想いと初夏を振り返る
小林武史の1990のアルバム、テスタロッサを聞いてたらここ二年の大学生活が思い出された。
いつも初夏って良いんだよな。
夏に焦がれつつも、その焦がれそのものがすでに夏っていうね。
いつもそこに気がつかず、本当の夏が来ると暑さにやられるんですが。
小平の景色はほんっとに個人的には、一年の頃は小林武史のテスタロッサかピーターセテラとかの音楽に彩られていた。いろんな人との出会い刺激的にが目まぐるしく始まる中で、その合間合間に訪れる静かな時間も好きになっていた。
そういう、人と人との時間の合間合間、傍で流れる想いとかを歌にするのが小林武史ってうまいのよね。気づかせてくれるわけですよ。
だから、コロナ禍で誰にも会えず、散歩の愉しみを知っていく去年の初夏なんかは、青梅という近くも全く知らない未知の幻想世界を漂っている頃なんかには、面白いように現世との対比の様に感じながら自転車を走らせていた。
あの初夏の字めったさと、知らない土地の焦燥はもう味わえないだろう。
知識や認識を持つことってすごく勿体無いことでもあるな。
同じように二年前、友人に連れられて初めて車で群馬・伊香保に行った時に見た霧で囲まれた天上の街の思い出なんかが強烈に音楽に染み付いてるわけで、結局コロナ禍の秋はそういう音楽ばかり聴いていた。人文地理・もっと言えば、生活の人と人の傍で流れる想いの音楽。自分はかたわらの想い的に地理を見ている。
おもしろくないですか。山を避けて街を作り、夜になるとそこに光が灯ってその形があらわになる、、。それが地平線を彩っていて、それぞれに名前がついているんですよ。観音山、根の権現・日高・新宿とかいうふうに。
だから山で孤独を感じることはあまりないし、むしろ街で遠くに鎮座する山の稜線を見て何か愛しさを感じてしまう。
そういう、土地土地に刻み込まれた想いの形の形跡を見て回るわけです。前橋や高崎なんかは、東京ほど代謝が早くないから、商業施設や案内なんかも古い書体を使ってる。だからそういう蓄積が見えやすいから好きなんだな。
こないだ行った羽生なんかもそうだね。
実はタイポグラフィが好きな理由もそこにある。かたわらの想いの表出として使われる文字というメディアはその役割を担う主体であるから、時代時代のそれを感じ取りやすい。
結局音楽も地理もデザインも俺はそういう視点で見ているから、それを学べば学ぶほど全てに生かされてくる。これほど楽しい時間はない。